※写真は、小田原市ホームページ「小田原デジタルアーカイブ」から転用いたしました。
防災の日、「9月1日」を迎えました。
テレビや新聞などのメディアでは、散発的に地震や災害関連の情報を提供しています。
前回に引き続き、小田原の地震に関して、未曾有の被害を受けた「関東大震災」を通じて掘り下げて行きたいと思います。
余談ですが、私のホームページのブログで、地震関連の記事がすごく読まれていることに気づきました。
「小田原 地震 津波」と調べる人が、プログを多く読まれていることがわかりました。
そのくらい、多くの人が、小田原での津波被害について、気にされていることがわかります。
ただ「小田原 マンション」で検察してくる人よりも多いことに、サイト運営者としては微妙な気持ちになりますが…。
地震や地学に関しては無知ですが、このプログの中では、「小田原の地震被害は阪神大震災型」と推察しています。
その根拠の一つを、関東大震災を被災した人の回顧録から見つけました。
「土地の亀裂は駅前から幸町通り小田原御用邸の濠端が最も凄く三尺以上も割れ、六尺位埋没して崖をなしているところもあった」
※出典/「写真と地図と記録で見る 関東大震災誌・神奈川編」(㈱千秋社)
すこし解釈すると「土地の亀裂は、小田原駅東口から横浜簡易裁判所小田原支部(旧小田原警察署)周辺、小田原城の二の丸広場の堀の端までのものが最も凄く、90センチ以上も割れ、約1メートル80センチも埋没して崖のようになったところもあった」となるだろうか。
要は、小田原の中心部に突然に亀裂ができてしまった、ということです。
ここに挟まれたり、飲み込まれたりして亡くなった方もいたのです。
読者の中で、この記述を見て、同じようなものをテレビのニュース映像で見たことがないだろうか?
これは「阪神大震災における断層」と類似していないか?と考えて思ってしまいます。
国土地理院が提供している「活断層マップ」と見ると、小田原市内では、全国的にも有名な「国府津・松田(神縄)断層」とその西側の高田周辺にある断層、そして久野の和留沢断層が表示されているので、単なる地割れと考えるのが妥当かもしれないです。
しかし、これだけ隆起・埋没する場所が、小田原の駅前に存在していたということは、それだけ強い揺れがあったという事例だと思われます。
また関東大震災の小田原の被害状況を追加で箇条書きします。
●井細田にあった小田原紡績工場が倒壊、女性作業員約600人の死傷者。内134人が建物倒壊による圧死、重傷約200人。
●早川口(旧十字二丁目・現南町)にあった地域屈指の規模だった足柄病院が、建物倒壊。直後に調理施設から出火。医師・看護士・患者とその家族などが巻き添えに遭い、33人が死亡
●開通式をしたばかりの酒匂川にかかる酒匂橋(国道1号線・箱根駅伝で渡る橋)と、酒匂川大鉄橋(東海道線架橋)が揺れで墜落・埋没
●市内の鉄道路線が寸断・破壊
●市内中心部(旧小田原町)の死者は約370人、負傷者約190人、行方不明4人、全壊家屋約1900、半壊家屋約500、全焼家屋2126、津波被害確認できず。
●根府川の山津波(土砂災害)被害は、集落約180戸と通行中の真鶴発東京行・東海道線(乗客約170人・死者7人・行方不明160人)を飲み込む、土砂は海まで達する。その際に小さいながらも津波が襲い、根府川駅・鉄道事務所・停車中の車両も海に飲み込まれる
●根府川の西側、米神地区でも山津波(土砂災害)が発生。20戸が土に埋まり、62人死亡
※出典/「復刻版・小田原近代百年史」(中野敬次郎著・㈱八小堂書店)
約100年前とはいえ、未曾有の都市型災害が小田原で発生していたことがわかります。
被害が小田原に比べたら軽微だった箱根では、震災後、観光客が、難民化しました。
そのため、平安時代に使われていた旧道を使って下山しようとしましたが、道幅が狭い急な道路に多くの人が押し寄せたことで混乱を呼んだ記述があります。
また、生活物資(飲料水を含む)を高値で売りつける騒動も起こり、軍隊による入山制限(関所)が静岡側・小田原側両方で行われたことも。
こういう貴重な経験を、ちゃんと活かして欲しいと思う次第です。
では、小田原は津波に寄る被害が想定できないのであろうか?
もちろん、答えは「×」。
小田原の近代災害の歴史は、関東大震災だけではないのです。
それは次回のブログで紹介します。
□阪神大震災の映像・資料を見て、災害時の身の振り方を考える。
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